近世ヴェネツィアの異邦人(その5)ユダヤ人

ギリシア人に次いで、あるいは、ギリシア人と並んで、近世のヴェネツィアにとって重要な異邦人だったのがユダヤ人。
近世そして現代のユダヤ人隔離地区の名称となった「ゲットー」の名の発祥地、ヴェネツィアのゲットー地区を歩いてきた。

 ギリシア人街があったカステッロ地区や、アルメニア人街とアルバニア人街があったサン・マルコ地区は、アドリア海からやってきた船がヴェネツィアに到着してすぐにアクセスできる場所、すなわち島の南側、大運河の出口付近にある。それに対して、ユダヤ人のゲットーがあるカンナレッジョ地区は、ちょうどその反対側、島の北側に位置する。鉄道駅から歩いて10分ほどのところだから、アドリア海側ではなく本土側だ。
 他の異邦人たちの街区とは離れたところにあるから、というより、滞在したホテルが鉄道駅の近くにあったものだから、いつでも行けるとたかをくくってしまっていて、結局、滞在後半にぶつ切り的に急いで訪れることになった。藤内哲也さんの論文(「16世紀ヴェネツィアにおけるゲットーの創設」『鹿大史学』2011年、「近世ヴェネツィアにおけるゲットーの拡大」『鹿大史学』2012年)や英語・伊語の論文で予習もして、事前の意気込みは高かったのだが、時間が合わなかったのでツアーでしか内部に入れないシナゴーグの見学は断念し、博物館と街区をうろつくことに専念した。

 近世ヴェネツィアのユダヤ人についてやゲットー建設のいきさつについては藤内さんの論文などに詳しいので、ここでは極々大雑把に触れておく。ヴェネツィアで本格的にユダヤ人の活動が始まるのは14世紀。西欧各地と同じようにおもに金融業者として活動した。ヴェネツィアのユダヤ人政策は14-15世紀を通じて変遷するが、恒常的な居住や大っぴらな宗教実践は基本的に禁止されていた。それが転換したのが16世紀初頭、カンブレー同盟戦争でイタリアでのヴェネツィアの地位が大きく揺らいだ頃。一時的にヴェネツィアが奪われた本土領から避難してきたユダヤ人の金融力を活用しつつ隔離(保護)するため、1516年、ユダヤ人の市内居住が認められるとともに、居住区内での居住が義務付けられた。最初に居住区とされたのが、周りをすべて水路に囲まれた溶鉱炉跡(ゲットー・ヌオーヴォ)。市内の他の地区とをつなぐ2本の橋は夜間には閉門し、完全に隔絶した空間になった。
 
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<写真1>北側から見たゲットー・ヌオーヴォ。右に見える橋は、ゲットー創設時に外界とつながる2つの口だった橋のひとつ。今は金属製だがかつては木製だった。左の水路にかかる橋は、3つ目のゲットー地区「ゲットー・ノヴィッシモ」が出来た際に設けられた。ふたつのゲットーの間に洗濯物ロープが渡されて、シャツがたなびいている。


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<写真2>北の橋を渡って、ゲットー・ヌオーヴォに入る。


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<写真3>水路に囲まれほぼ五角形をしているゲットー・ヌオーヴォは、内側から見ると五角形の広場を建物が取り囲む構造になっている。ゲットー創設直後からの人口増のため、建物は高層。7階建ての建物なんて市内ではほとんど見かけない。


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<写真4>手前の黄色い看板のある建物がユダヤ博物館の入口。左隣の建物の最上部(窓で数えると5階部分)が、ゲットーで最も古いシナゴーグ(スクオラ・テデスカ、1528年)。これら2つの建物がいまは博物館として使用されている。博物館の展示は、とくに歴史の解説が分かりやすくてよかった。写真左の人が二人立っているあたりから、建物のなかをくぐってゲットー・ノヴィッシモへの橋に出ることができる。


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<写真5>人口の急激な増加に伴い、建て増し継ぎ足しされた建物の様子がわかる。2番目に古いシナゴーグ、スクオラ・カントン(1532年)の尖塔が少しだけ見える。


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<写真6>ゲットー・ヌオーヴォ広場から北の橋をみる。水路の向こうは外界である。


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<写真7>ゲットー・ヌオーヴォ広場の中心には、市内の広場の例にもれず、井戸(というか貯水槽の取水口)がある。ここがヴェネツィアだということを急に思い出させる。



 ゲットーが設けられた16世紀初頭といえば、少し前にイベリア半島からのユダヤ人追放が起こり、地中海ユダヤ人の移住の波が起こった頃。もちろん、スペイン・ユダヤ人の流浪は、この時期の地中海の(それと関連しながらヨーロッパ全域の)人の流れの大きな変化の一部をなしたに過ぎず、ヴェネツィアにおいても、すでに見てきたように同時並行的な現象だった。ギリシア人やアルメニア人と同じように、ユダヤ人も、この時代にこの都市の中で居場所を確保したのである。
 人口の増加に伴い手狭になったユダヤ人居住区は、1541年、当時ゲットー・ヌオーヴォの南西に位置する水路を挟んだ「ゲットー・ヴェッキオ」に拡大された。さらに1633年には、ゲットー・ヌオーヴォの南東に拡大し「ゲットー・ノヴィッシモ」がつくられた。
 3つのユダヤ人地区の名が、古い順に「ゲットー・ヌオーヴォ(新ゲットー)」、「ゲットー・ヴェッキオ(古ゲットー)」、「ゲットー・ノヴィッシモ(最新ゲットー)」となるのは、ユダヤ人居住区になる前の名称を受け継いでいるからだとか。

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<写真8>最初のユダヤ人地区ゲットー・ヌオーヴォから南の橋を渡ると、水路の向こうの2つ目の地区、ゲットー・ヴェッキオになる。ほんの10m弱の水路。


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<写真9>ゲットー・ヴェッキオは、地区を貫く通りの両側に長く延びる。


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<写真10>ふたつのユダヤ人居住区(ゲットー・ヌオーヴォとゲットー・ヴェッキオ)の間の水路。ここにも洗濯物がはためく。


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<写真11>ゲットー・ヴェッキオにあるふたつのシナゴーグ。左手に1538年建造のスクオーラ・レヴァンティーナ、奥に1555年建造のスクオーラ・スパニョーラ。


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<写真12>ゲットー・ヴェッキオから外に出るには、水路を渡るのではなく「くぐり口」を通り抜ける。工事の足場で隠れてしまっているが、くぐり口右手前にユダヤ料理店がある。残念ながら時間がなくて食することはできなかった・・・。


 近世に成立したふたつのゲットーを縦断してから、改めてゲットー・ヌオーヴォに戻って、現代史の記憶と向きあう。
 1943年12月から1944年8月にかけて、ここから250人余りのユダヤ人がアウシュヴィツに向けて移送された。

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<写真13>ゲットー・ヌオーヴォ広場に1980年に設置されたホロコーストの記憶を刻む6枚のレリーフ。


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<写真14>同じ広場にある「最後の列車」と題されたレリーフ。


 ゲットーへのユダヤ人隔離はナポレオン統治期に廃止され、ホロコーストの悲劇を経て、今ではゲットー地区には住むユダヤ教徒は20人ほどなのだとか(市内全体では500人ほど)。それでも、往時をしのばせる隔離の構造は近世のユダヤ人の生活を彷彿とさせるし、いまも並ぶ(いくつかは現役の)シナゴーグは現在も生きるコミュニティの存在感を感じさせる。

 縦長のゲットー・ヴェッキオからくぐり口を出ると、水路の向こうは鉄道駅につながるにぎやかな通り。ゲットーを訪れた時間帯のせいなのかもしれないが、ゲットー内の静けさと外の喧騒の差が印象に残った。

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<写真15>ゲットー・ヴェッキオと「外界」をつなぐくぐり口。外の水路が見える。


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<写真16>「外界」側から見たゲットーへの入り口。


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<写真17>ゲットーの外の水路沿いでは、朝、魚屋が屋台を開いている。アサリがうまかった。


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<写真18>ゲットーへのくぐり口を水路越しに見る。水路に面した3階建ての黄色い建物は「外界」の、その背後にある灰色の高層の建物はゲットーの世界に属した。

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